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ありのままで生きる。とは、どういう事でしょう?
B’zの曲で、「愛のままに、わがままに…。」と続く歌詞が有りますが、
ありのままに生きる事は、わがままに生きる事とは違います。
また、「このままの自分で良い。」何ていう耳障りの良い言葉で
自分を誤魔化して、向上心を忘れ去ってしまう生き方とも、
「すべてを受け入れる」と言いつつ、諦めてしまう事でもありません。
自分らしく、ありのままに生きる。とは、
「自由自在」に生きる。という事です。
今、自分自身に起きている事は全て、自分自身の行為や、思考が基になっている。
という事実を「自覚」して生きる事。
様々な情報が飛び交っていても、選択したのは自分自身です。
誰のせいでもありません。
其処の所を自覚(自ら覚悟を決める)する。
逆に言えば、何を考えるかは全くの自由です。
誰にも邪魔はできません。どう生きるかは、自分しだいです。
自分の「思考」しだいでどんな風にでも、変えられます。
自分の人生は、自分が決めているのです。
もう一度言います。
自分らしく、ありのままで生きるとは,
「自由自在」の意味を深く理解して、自分の人生を責任を持って生きる。
という事に他ありません。
ここまで、結構長かったですね。
「アナ雪」の楽曲を聴いて素直に感動してれば良いのに、
直ぐにこんな事ばっかり「思考」を巡らせては、周りから煙たがられている。
それが、ありのままの私。
これでいいの〜♪。
って、良いわけ無いやん!
「自分」という漢字を分析してみると、
自ら(みずから)を分ける。とも、
自ず(おのず)と分かる。とも読み取れます。
全体(極(きわみ)と言います。)から自ら(個)を分ける。
黙っていても、自ずと分かる。
それが、「自分」。
では、全体の中から「個」を際立たせるものとは、何でしょうか?
それは、「思考」です。
前回、私たちは様々な情報に晒され続けている。
と書きましたが、その情報をどう処理するのか?どう受け止めるのか?
それは各人各様です。
ストレスと感じるのか、喜びと捉えるのか、またはスルーするのか?
結果にも当然、差が生じます。
その時、どう感じるのか?どう考えるのか?
これだけは、全ての人が同様に「自由」です。
言わば、「思考」のみが「自分」を表現している。とも言えます。
この考え方で、「ありのまま、あるがまま」を分析してみると、
あるがまま=そのままである。=「自在」。
(自ずと在る。自ら在る。)と成ります。(ちょっと強引か?)
これに、自らが由に(みずからがゆえに)
=自分の思考、行為の結果。と言う意味合いの「自由」。
を合わせて「自由自在」。
「自由自在」自分の思考、行為によって、自らが在る。
逆に言えば、今、自分の目の前で起きている事は、
全て自分の「思い」が具現化したものである。とも言えます。
両親が、自分達の子供を授かった時、
初めてする仕事はその子に名前を付けることです。
どんな親でも、その子の将来を夢見、または夢を託し、
こんな風に育って欲しい。こうあって欲しい。
という願いと祈り(イメージとエネルギー)を込めて
命名します。
この行為を「ネーミング」と「レッテル貼り」と呼びます。
私たちは生まれてこの方、いろいろな名前で呼ばれています。
両親から貰った本名はもちろんの事、
子供の頃からのあだ名や、その時々の身分
(小学生、学生さん、○○クラスの子供、社会人一年生…。)や、
肩書き(新米、課長さん、院長、町内会、PTAの役員さん…。)。
男の子、女の子、長男、末っ子、日本人、芦屋の人。
お父さん、お母さん、○○ちゃんのママ、○○先生の奥さん。
数え上げたら、キリがありません。
中には、「おいっ。」という「名前」で、長年呼ばれていた。
何ていう方もあります。
その一つ一つに、その名前に込められたエネルギーとイメージが
レッテルとして貼り付けられて行きます。
私たちは、無意識の内にその名札(レッテル)に縛られ、
そのイメージに添った自分を演じます。
一度、思いつく限り自分が呼ばれたことのある「名前」を挙げてみて下さい。
出来れば、何時、どんな場面で、誰からかも。
そして、その状況をぼんやりと眺めて下さい。
思い出して、意識に上げるだけでも充分です。
そうすると、自分自身が自分のことを○○だ。と感じていた事柄が、
何時どの瞬間から始まったのかが、何となく解ってきます。
さらに一つ一つ、丹念に当たって行くとある時に、
ふと感じることがあります。
今まで、自分が暖めてきた「セルフイメージ」なるものは、
実は何の実体も無かったのではないのか?
ただの「思いこみ」だったのでは?と…。
ここまで来ると、「自分らしさ」なんて何処かに行ってしまってます。
何だか、話がややこしくなって来ているので、
続きは次回「ありのまま」編にて。
本当の自分とは?
それは、理想の自分のことなのでしょうか?
それとも、現在そのままの自分なのでしょうか?
それとも…?
自分らしく生きる為には、先ず
「自分」が何者なのかを理解する必要が有ります。
自分自身が「自分」のことをどんな人間だと捉えているのか。
それをセルフイメージと言います。
では、そのセルフイメージは、一体何処から来ているのでしょうか?
そのほとんどが、「自分」以外の外部からの「情報」です。
私たちは、物心をついてからずっと、様々な情報に晒されています。
それは、肉親であったり、先生であったり、友達だったり。
あるいは、活字や、マスメディアや、インターネットなどの
一般的、社会的な情報であったり。
家族、コミュニティー、民族。
または、教育、歴史、習慣的な要因。
特定の宗教、思想、信条に基づくもの。
○○でなければ、いけない。
○○でないのは、変だ。
あなたは、○○だ。
○○に比べて、○○だ。
そんな様々な情報を、経験の中から、
自分なりに再構築して作り上げたもの。
それが、貴方が貴方自身の姿だと認識している、
所謂「セルフイメージ」です。
その中には、いろいろな思念や、エネルギーや、イメージが
ギッシリと積み込められています。
その最たるものが、「ネーミング」と「レッテル貼り」です。
どういうものか、次回説明して行きます。
大ヒット中のディズニー映画「アナと雪の女王」。
もうご覧になりましたか?
若い女性や子供さんを中心に、既に1000万人以上の方が、
映画館に足を運んでいるそうです。
劇中歌も異例のヒットで、何でもスクリーンに合わせて歌ったり、
「レリゴ現象」なるものが起きたりと、
一種の社会現象化している感すらあります。
我が家でも、娘や姪っ子達が早々に鑑賞し、
GWには、サントラ版のCDを購入しました。
ところで、そのサントラ版ですが、今話題の「LET IT GO」。
原盤と松たか子さんが歌う日本語盤。訳詩がかなり違います。
曲のタイトルが「LET IT GO(ありのままで)」となっていますが、
本当の意味は、かまわないわ、どうでもいいの。
みたいなニュアンスだそうです。
これ以上隠しておけない。みんなが何と言おうと気にしない。
決して戻るつもりはないわ。と言う、開き直りとも取れる強い決意、
過去の自分との決別宣言が、
吹き替え版では、ありのままの自分になるの。
自分を好きになって。自分信じて。光あびながら歩きだそう。
といった自分応援ソングへと変化しています。
キャラクター的にはこの方が、日本人に受け入れ易いのは、確かですが…。
まぁ、個人的には、レリゴよりレルビ(LET IT BE)=「あるがままに、なるようになるさ」の方が
シックリ来るように感じるのですが、それはさておき。
いずれにしても、世の多くの女性が、「自分らしく、ありのままに生きる。」
ことに大いなる共感を抱いていることは、事実です。
でも、ここで素朴な疑問が有ります。(私だけかもしれませんが。)
自分らしく生きるってどういう事?
そもそも、ありのままってどんな意味?
ちょっと考えてみましょう。
<皇大神社 樹齢二千年の龍灯の杉>
神社にお詣りに行くと、神殿の中央正面に神鏡(かがみ)が据えらているのをよく見ます。
大きな社や、扉が閉められていて中を伺い知る事ができない場合も有りますが、
多くの神社は鏡そのものが御神体と為っています。
神道の場合は、仏教に置ける仏像の様な偶像(シンボル)は、存在しません。
唯一、其れらしきものがあるとすれば、それは神鏡(かがみ)です。
では何故、鏡なのでしょうか?
ちょっと思い浮かべてみて下さい。
私たちが正面にある鏡に向かって拝んでいる姿を。
神様に手を合わせているつもりが、実は鏡に映っている自分自身を拝んでいるのです。
鏡という文字を一文字ずつ、見て行くと、「か 我 み」となります。
つまり、「神(かみ)」の中に「我(われ)」がある。
我の中に神がまします。
とも言えますし、自分は大宇宙を構成する一部である。
また自分の中に小宇宙が存在する。
とも言えるかも知れません。
神鏡が御神体であるのは、そう言う意味合いが有るのでは?と思います。
鏡に映る自分自身の中に本来有る神性なる部分に手を合わせる。
これが、本当の意味での信仰なのではないでしょうか?
施術に於いても然りで、患者さんの持っている自然治癒力を信じて、
本来有るその方の最高の状態を引き出す(その姿をイメージする)。
これが、本当の意味での治療なんだと思います。
もし、神社に行って手を合わせる機会があれば、
神鏡に映る自分自身の姿を心静かにじっと見つめてみて下さい。
もしかしたら、本来有るべき我(われ)の素形(すがた)が
ぼんやりと写しだされる事がある?かも知れません。
※あくまでも精神的なお話であって、
宗教云々は関係有りません。あしからず。
「暑さ寒さも彼岸迄」
これは、冬から春へ、夏から秋へと変化して行く
光の量と質を脳にしっかりと認識させる為に必要な期間を
表していると言えるかも知れません。
「彼岸」:彼の岸(かのきし)
彼方なる岸辺に思いを馳せる時間。
あちらとこちら。
光と闇。
その間(はざま)を紡ぐ薄ぼんやりとした時間帯を昔から、
黄昏時(たそがれどき)と呼びます。
「たそがれ」:誰そ彼
彼は誰? 彼方に見えるのは誰なんだろう?
薄暗くてはっきりしません。
同じ意味の言葉がもう一つあります。
「かわたれどき」:彼は誰?どき
どちらの言葉にも、何とも言えない風情と情緒を感じます。
光に満ち溢れた現代。
その明かるさ故に、すべてが際立って見えます。
何となく心が安まりません。
光と闇が入り混じる渾沌とした風情を私たちは、いつしか忘れ去っています。
そのあまりの情緒の無さに人々は、
情緒不安定(自律神経失調症)に陥ってしまうのかも知れません。
「黄昏時」
移り行く季節と時の変わり目には、
これ位の明かるさがちょうど良いのかもしれません。
お彼岸の夕暮れにそんな事を考えています。
昔からよく、病は気から
と言いますが、
現代社会に於いてはそのほとんどが、
ストレスに起因しているとも言えます。
ストレスの要因も多種多様で、
ライフスタイルの変化に伴う夜型生活への移行や、運動不足、
パソコン、スマホ等の電磁波の影響、化学物質や大気汚染など
以前では考えられ無かったものの影響も無視する事は、出来ません。
もちろん、仕事や健康上の悩み、人間関係のトラブルなど
数え上げればキリが有りません。
また、食事を見直す事だけで現実に存在するストレスが
すべて消えて無くなると言っている訳では有りません。
上司がイヤミをいわなくなったりとか、
子供の成績が突然上がったりとか…。
腸の状態を整える事によって、
ストレスが軽減したり、ストレスに強くなる
神経伝達物質が分泌されやすくなり、
ひいては病気に対する抵抗力が増して、罹りにくくなります。
と言う訳です。
その片はお間違え無い様に…。
何を食べるかについては、次こそ。
祈りと感謝は、いつもワンセットです。
「いただきます。」と
「ごちそうさま。」の様に。
どちらも何気ない日常のありふれた
挨拶の言葉のようですが、
国によっては、食事の際に宗教的な儀式は行なわれても,
「いただきます。」「ごちそうさま。」のような挨拶をしない所もあります。
言葉は、その国に暮らす人々の考え方や、
生活、文化が色濃く
反映されています。
人間の身体は、その人が生きて食べて来たもので出来ていて、
そして、その人の思いによって、動いています。
そういう意味では、
何を食べるかは、勿論大切ですが、
どういう思いで食べるのか…は、
もっと大切と言えます。
「命を大切にする。」
「感謝して頂く。」
何気ない挨拶の言葉に込められた意味に思いを馳せる事は、
食べる事の意味=自分自身の生きる意味や、
命を大切にする事につながるのでは無いでしょうか。
挨拶は大切に、心を込めて。
私達は、日頃生活する上で多くの人達の親切や、
社会的な恩恵を受けています。
ご飯を作って貰ったりだとか、
電車で席を譲って貰ったりだとか。
目に見える形で受けた心遣いには、
有難いと感じ、言葉にすることが出来るのですが、
ほとんどの場合は、気付かれる事無く、そこに存在しています。
例えば、お日様だったり、身体の免疫機能だったり、
亡くなったおじいちゃんの思いだったり…。
目に見えない事を解る為には、
どうしたらいいのでしょうか?
それは、感じるしか有りません。
感じる為には、ある程度の感受性と想像力が必要です。
今まで知らなかった、考えてもみなかったし、気にも留めて無かった。
けど心静かに感じてみると
本当はずっと守られていたんだ。
ずっと愛されていたんだ。
今まで気も付かずにお礼さえ言ったことも無かったなぁ。
本当に申し訳無かった…。
そんな風に「感じて謝る事」。
それが、感謝の心です。
そして、それを「気づき」と言います。
気(エネルギー)つき(ラッキー)
「気づき」は、幸せへと導いてくれます。