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それぞれの表現。

前回の続きです。
何度か寄席に足を運んでいると、

結構同じ「演目」にぶつかることが有ります。

同日、出演者同志が被る…。何てことはさすがに有りませんが、

昨晩、新宿で聞いたお話しを次の朝、また上野で…。

 

 

これはデジャヴュなのか?

そんな訳は有りません。
演者が変われば、同じお話しでも、

まるで違った印象になります。

 
まずは、話の取っ掛かり「まくら」。

どんな内容のものを持って来るのか?

「掴み」はOKなのか?

話家さんの個性と力量が如実に表れます。

 
それと登場人物の設定、舞台となる土地や場所の

説明の仕方も各々、特徴があります。

 

 

あと、話家さんによって声の張り方や、

高低、口調なんかも十人十色。

表情、しぐさ、間の取り方も各人各様です。

なんと最後の「落ち」までが、まちまち。(ウソです。)

 
師匠から教わった「古典」としてのお話しは同じ一つのもの。
でも、「演目」として高座で演じられるのは、

その「演者」の数だけ存在しています。

その「違い」を体感することも楽しみの一つと言えます。

 

その違いを個性というのか、「味」と呼ぶべきか?
まあ、「味」が出るにはもう少しの熟成期間が必要かもしれませんが…。
同じお話しでも、表現方法はさまざまです。

 
病気も同じことです。

身体の状態の感じ方は、人それぞれ。
また、症状の訴え方も各人各様です。
何をストレスと感じるのか?
また、痛みと感じるのか?

 

 

その患者さんの身体が訴えかける「症状」という

お話しの主題「演目」は何なのか?

 
その方の背景に在る生活環境や人間関係、

その他諸々の条件も踏まえながら、

その「それぞれの表現」に謙虚に耳を傾ける必要性を痛感する…

今日この頃です。