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杏林堂にも、お元気で御活躍されている
御高齢の方々が、数多く来院されています。
今迄30年以上施術にたずさわり、
延べにして数万人の方の中には、
スペシャルが付くぐらい健康で、豊かで、
充実した老後?を過されている方も沢山いらっしゃいました。
そんな方々と接していて、時々感じることがあります。
それは、その方々の佇まいや雰囲気に
何となく似通った感覚が在る…。ということです。
体型や体格はまちまちで、恰幅の良い方も、
また小柄で華奢な方もいらっしゃいます。
性格も、エネルギッシュで豪放磊落な方も、
温厚で物静かな方もおられます。
そんな見た目の印象では無い、内面から滲み出るもの…。
たいていの場合、豊かになる為の考え方や感じ方には、
共通点があるんじゃないかなぁ。と何となく感じることがあります。
それは、
人の悪口をあんまり言われません。
嫌なことや、愚痴をいつまでも
クヨクヨ考えたり、口に出したりしません。
楽観的にものごとをとらえます。
あらゆる出来事が、より良くなっていく為に起きていると信じています。
周りの人の幸せを心から願っています。
犬や猫、木やお花。
人だけで無く、生き物(いのち)を大切にします。
遊び心やユーモア精神があって、
ちょっとお茶目でチャーミングです。
堅苦しく無く、人に押し付けたりしません。
人のせいにしたり、周りや環境に文句をつけたりしません。
つまり、自分の人生は自分自身が創っている、創ってきたんだ。
という、ある種の「清々しさ、潔さ。」といったものが、
オーラ?となって現れている感じです。
私自身も、施術を始めたばかりの若い頃には分からなかった
(というか、考えてもいなかった)ことですが、
この歳になってようやく何となく感じ始めた感覚かもしれません。
少しづつでも、そんな境地に近づきたいものです。
「棚からぼたもち」という諺(ことわざ)があります。
思いがけず幸運を得ること。
労せずして良いものを得ることのたとえ。
とされています。
口を開けていたら、ぼたもちが勝手に落ちて来た。
なんて例も、書いてあったりします。
でも、本当にそんな「おいしい話」って、あり得るのでしょうか?
ちょっと考えてみましょうか。
棚からぼたもちが落ちて来たという事は、
棚の上にぼたもちが置いてあった、訳ですよね。
じゃあ、いったい誰がそのぼたもちを
棚の上に上げていたのでしょうか?
お彼岸の仏様へのお供物であるぼたもち(おはぎ)も、
もともとは神様に捧げる「かいもち」に由来しています。
お仏壇に供えたお餅は、お下がりで戴いたけれど、
高いところに在る神棚のは、すっかり忘れてしまっていた…
なんて事は無いでしょうか?
捧げたことも、お下がりで戴くこともすっかり忘れてしまう。
そんな見返りを求めない、いわば「無償の愛」とも言える行動が、
巡り巡って戻ってきた「天からの授かり物」…?
おいおい、そんなすっかり忘れていたような「ぼたもち」なんて、
カビだらけでとても喰えたもんじゃ無いだろう。
なんて、そんな話をしている訳では、ありません。
これはあくまでも、例え話です。
先日、「アリババグループ」がNY株式市場に上場し、
総資産額が、25兆円に達した。という報道がありました。
その際に、筆頭株主であるソフトバンク孫社長の、
14年前に出資した20億円が、
4000倍の約8兆円の含み益となって戻ってきたという話が、
多いに話題になっていました。
でもこの話って、いわゆる「棚ぼた」なんでしょうか?
たった5分で、ポンと20億円。
ジャック.マー氏の将来性を見通しての
先行投資…という面も勿論、有ってのことでしょう。
でも、それが全てでは無い。という事は容易に想像出来ます。
孫社長が投資されたのは、何もマー氏だけでは無い筈です。
数多くの若手起業家に融資した資金のほとんどは、
もしかしたら回収出来ていないのかもしれません。
いや、始めからそんな事は期待すらしていなかったのでは…?
将来有望な若手起業家育成の為に、
見返りを求めずに採算度外視で投資する。
いわば、無償の愛で行動する覚悟が有ったからこそ、
14年経って複利を付けて戻ってきたのでは無いでしょうか。
(済みません。全て推測で、勝手に持論を展開しています。)
棚ぼたのコツは…。
先ず、ぼたもちを棚に置く。
そして、それを忘れる。
ですよね。
でも、棚の上にぼたもちを上げておくのは、
何も「自分自身」に限った訳では、ありません。
目に見えない存在、ご先祖様がせっせと積んだ「徳行」というお餅が、
今生きている私達に「思いがけない幸運」という
「形」になって現れているのかも知れません。
(多分、こちらがほとんどでしょう。)
そんな「感謝の意」も込めて、
お彼岸にぼたもち(おはぎ)を、供えます。
秋のお彼岸には「おはぎ」を、
春のお彼岸には「ぼたもち」を
仏様にお供えします。
漢字にすると、「お萩」と「牡丹餅」。
つまり、その季節の花を模して呼ばれていて、
基本的に中身は同じ物です。
「お萩」と「牡丹餅」はそれ以外でも地方によっては、
・小豆のあんが、ぼたもち。
きな粉をまぶしたものが、おはぎ。
・こしあんが、ぼたもち。
つぶあんが、おはぎ。
※小豆の収穫時期の秋は穫れたてで、
皮が柔らかいので、つぶあんのままで。
冬を越して固くなった皮は、そのまま食べれないので、
潰してこしあんになったようです。
・丸くて大きいのが、ぼたもち。
小ぶりで長めが、おはぎ。
※花の形に似せて。
・お米が餅のようになっているのが、ぼたもち。
粒々が残っているのが、おはぎ。
のように区別されたりします。
もともとは、日本古来の太陽信仰(天照大神)に基いて、
太陽が真東から出て真西に沈む春分、秋分の日に
「かいもち」として、神様に捧げたものでした。
それが、お彼岸の中日が春分、秋分の日になるという
仏教の影響を受け、また「邪を払う」とされる
「赤色」の小豆で作られたお餅が、
お彼岸のお供物となりました。
※小豆には利尿作用があり、
冬の冷えや、夏に摂り過ぎた
水分調節の役割も果たしているとも考えられます。
また、サンスクリット語のbhukta(ご飯の意)が、ぼたに。
mridu、mudu(柔らかい)が、もちとなって
「ぼたもち」になったという説もあります。
以上、おはぎとぼたもちでした。
9/20(土)、9/21(日)に芦屋市松浜町にある
「芦屋国際ローンテニスクラブ」に置いて、
「第54回 芦屋グランドベテランテニス大会」が開催為れました。
この大会は、シニアプレーヤーの底辺拡大を目的に
毎年この時期に行われています。
今年も、秋晴れのもと全国から駆けつけた高齢者の方々が、
熱戦を繰り広げられました。
参加資格は男性65歳以上、女性は60歳以上。
試合はダブルスで行われ、
年齢別にブロンズ、シルバー、ゴールド、エメラルド、ダイヤモンド
といったブロックに分かれています。
1番若いブロンズで、
お2人合わせた年齢が、130歳以上。
1番上のダイヤモンドが、160歳以上で、
中には、お2人共、90歳を超えるペアも居られたようです。
20日の夜には、読売巨人軍の常宿でも在る
「ホテル竹園」で盛大なパーティーも催され、
多いに盛り上がったそうです。
本当に凄い!ですね。
如何すればこんなにお元気で、
充実した老後?を過ごす事が出来るのでしょうか?
杏林堂に通院されている患者さんで、
参加されている方も何人かいらっしゃいます。
それ以外でも、85歳を越えても
毎日、プールに通われている方、
(中には、1000m泳がれる方も)
90歳を越して3ヶ月ごとに海外旅行に出られる方など、
本当にお元気な御高齢の方が、
沢山いらっしゃいます。
ひとえに当院の施術のおかげ。
と言いたいところですが、
残念ながらそれは、全くの的外れです。
患者さんご本人様の日々の積み重ね、
心がけの賜物に他ありません。
それは、食事?運動?趣味?
確かにいろいろな事柄に留意されていらっしゃいます。
が、それだけではありません。
ご本人様の考え方、生き方そのものに
その答えが在るように思われます。
お元気で、活き活きとした御高齢の方が、
これ迄どの様に「実験」を重ねてこられたのか?
その辺りに何かヒントが隠されているのでは…。
続きます。
「すべての人生は実験だ。たくさん実験を重ねるほど良くなる。」
これは、アメリカの随筆家 ラルフ.ウォルドー.エマソンの言葉です。
では、私たちは自分の人生を賭して何の為に、
どの様な実験を重ねているのでしょうか?
それは勿論、「幸せになる為に」ですよね。
より豊かで、自分らしい人生を送るために。
患者さんや、いろいろな方にお話を伺ってみて、
自分なりに考えると「人生の悩み」って
だいたい次の4つに集約されるんじゃないかと思います。
⑴健康
⑵経済状態(お金)
⑶人間関係
⑷自己実現
健康問題は、自分だけで無く家族なども含まれますし、
人間関係は親子、夫婦、恋愛など多様です。
自分実現は何も、成功しているかどうかだけでは無く、
今の自分自身に納得しているか?なども当てはまります。
お金の問題は、言わずもがな…
ですよね。
私たちは、日々「実験」を繰り返し多くの学びを得ている筈…
にも拘わらず、思うような結果になかなか結びついていません。
潜在意識に働きかける、思考の現実化、
引き寄せの法則などなど…。
実験方法は、世の中に数多く提示されている筈なのに。
何故でしょうか?
実験方法そのものに問題が在るのか?
それとも私たちのやり方が間違っているのか?
はたまたその両方とも…なのか?
実験と言うからには、先ずきちんとした
科学的検証法に基づいて行われる必要があります。
何故、今このような状況にあるのか、
できる限りの情報を集めて
・仮説を立てる
・仮説を検証する
・データを記憶して、分析する
・結論を出す
そして、詳しい記録を取る。
ですよね。
そして、実験を行う者としては、
過去の思考パターンに囚われず、偏見の無い心と、
客観的に観察し発見したことを記録する能力、
そしてそのことを信じる強い意思。
そんな科学的思考力が求められます。
って、そんなの絶対に無理です。
今、現実にもがき苦しんでいる「当事者」にとって
客観的に冷静に分析するなんて不可能なことです。
思い込みやら囚われとかで、がんじがらめですから…。
じゃあ、如何すればいいのでしょうか?
続きます。
気感は無くても良いけれど、有った方が便利です。
これは、前回のお話でしたが、
どちらにしても重要なのは、結果が出るかどうかです。
感じること、見えることで情報量は格段にUPしますが、
必要なのはその情報を操作する事です。
漢方でも、「証」を立てますがそれは施術をする為です。
レントゲンで、何か影が「見えた」とします。
「こんな影があります。」と伝えることも必要ですが、
重要なのはその影をどうするか?ですよね。
その影に働きかけること、そして変化させること。
そう、大切なのは「変化」です。
見たり、感じたりするだけでは何の意味もありません。
そこにこだわると却って盲点を作りかねません。
見たもの、感じたものを意識的に動かしたり、
色や手触りや質感を操作して変えることで、
どの様な変化があるか、観察するのです。
例えば、自分や相手の呼吸や熱感、
顔色や表情、身体や目の動き、
そして症状そのものを。
気感に1つ1つ働きかけて、
注意深く冷静にその「変化」を観察して、
それを基にまた働きかけていきます。
その繰り返しが、症状の緩解へと導くのです。
このピリピリとした感覚を取り除いたら、どうなるのか?
○○色を変化させたら、何が変わるのか?
見えている映像にエネルギーを流し続けたら?
丹念にフィードバックさせて、
脳に書き込んでいきます。
気感は、情報の翻訳です。
その気感に働きかけて、
1つ1つフィードバックさせることで、
その翻訳を現実に翻訳し直すのです。
脳への情報=「記憶」を増やすこと。
これが、翻って気感を高めることにも繋がっていきます。
鍼灸のツボの場合でも、反応点=治療点。
反応点(気感のある部位)=治療点(刺激して変化させる部位)と為ります。
気感に働きかけて、操作しその変化を観察する。
そして、その結果を記憶してフィードバックさせる。
何だか、科学の実験みたいですね…。
続きます。
気感は、無くても良いけれど有った方が「便利」です。
感じ無いよりも、感じた方が。
見えないよりも、見えた方が。
それは、圧倒的に「情報量」が増えるからです。
暗闇の中の手探り状態よりも、
電気を点けて明るくした方が、見つけやすいのと同じです。
では、どうやって「電気を点ける」と良いのでしょうか?
それは、自分で積極的にスイッチを入れることです。
自分から感じようとしないと、何も感じません。
見ようとしないと、見えてきません。
脳に質問をするのです。
何となく見えた時には、イメージの中でくっきりと為せて、
それをもう1度、目の前に見ることです。
ただ、勝手な先入観が邪魔をすることが、多々あります。
「こんな感じ。」「こう見える。」という思いが強すぎると、
いわゆる盲点を作ります。
感じたものに変な解釈を加えたり、
「気のせい」などと無駄な思考をしないことです。
感じたことが、正しいかどうか「逡巡」する必要はありません。
私が感じたものが、感じたもの…なのです。
他の人と比べてみて、同じでも違っていても、
何の問題もありません。
何故なら、「気感は情報の翻訳」だからです。
それは、気感のもととなるのが「差異」で、
情報のもととなるのが「記憶」だからです。
AとBの差。
自分と他者との差。
多ければ、多いほど感じやすく為ります。
誰でも自分自身の事が、1番わかり難いものです。
それは、「差異」が無いからです。
記憶と情動と5感が結びついて、
脳の錯覚と情報交換が起きる。
つまり、感じ方や見え方は人それぞれ。
記憶という情報(インプット)も、
それを翻訳する脳という機器(アウトプット)も、
それぞれ固有のものなので、
違って当然のことなのです。
他人の感覚は気にしないことです。
気のせいかな?という微妙な感覚を
これが「気感」だと確信して、
繰り返し意識に上げること。
これが、大切です。
あと1つ、もっと大切なことがあります。
それは…。
また、続きます。
私達は、いろいろなものを思い浮かべる事が出来ます。
そして、目を閉じてありありとした映像を見る事も出来ます。
では私達が暗闇の中、手探りで何かをさがしている時、
脳はいったいどんな風に働いているのでしょうか?
実は、手に触れた物を一々、
視覚状態に翻訳して、映像化しているのです。
もちろん、今迄に見ていた映像の「記憶」を
引っ張り出している場合も考えられますが、
それだけではありません。
触れている「感触」を脳が記憶をたどって
映像に翻訳して、認識しているのです。
つまり、触覚を視覚に翻訳している、
触覚の「共感覚」とも言えます。
このことを利用して、
「目を閉じて、何かに触れる。」という練習をしてみましょう。
触覚で認識出来た気感(エネルギー感覚)を
「意識的」に、映像に翻訳してみる。
この何となく冷やっとした感触を意識(イメージ)して視ると…。
何となくボヤッと?
その時、ぼんやりと「見た」ものが、
気感を見る「萌芽」のようなものになります。
「見た」ものを疑ったり、否定したりせずにとりあえず、
そのまま感じましょう。
「気のせいかも?」
でもそれは、「氣の精」かも知れません。
曖昧でぼんやりとした感覚をそのまま維持し、留めることです。
気感(エネルギー感覚)は、初めは微妙で囁くようなものです。
その「ささやき」に耳を澄ませるようなイメージが大切です。
それが、そのうちに使える「情報」となってきます。
何となく視覚に慣れてくると、応用編?として、
触れた感覚に
「色」をイメージしてみる。
この感覚は、どんな色なのだろうか?と意識的に思い浮かべて(イメージ)して、
何となく感じた色をそのまま視る。
また、「におい」を感じてみる。
「味」を感じてみる。
触覚同志を組み合わせてみる。
例えば、「ピリピリする感じ」「柔らかい感じ」「尖った感じ」などの質感と、
「温かい」「冷たい」などの温度感覚や、
「大きい」「小さい」
「重い」「軽い」などなど…。
触覚の「共感覚」とも言えるものを意識的に作り出してみるのです。
その際、感じたものをそのまま受け止める。
まあ、一種の「思い込み」みたいなものも重要です。
あと1つ、大切なことがあります。
それは…。
また、次回に。
患者さんを診断する際に、
東洋医学では独特の方法を用います。
それが、「四診」と呼ばれるものです。
先ず、患者さんの動作や状態を「見て」観察する「望診」。
次に、会話の際の声の調子やトーン、呼吸(息の仕方)を「聞いて」、
また体臭、口臭、排出物などのにおいを「嗅いで」診断する「聞診」。
そして、患者さんに直接病状などを問う「問診」。
※その際、同時に望診、問診も行います。
最後に、実際に患者さんに「触れて」
脈を診たり、腹部などを触診する「切診」。
そして上記の「四診」で得た情報に
陰陽論、五行論などなど…の理論を組み合わせて
判断したものを「証」と呼びます。
つまり、施術者は「5感」を駆使して、
それを組み合わせて「証」を立てるのです。
その為に、施術者はその感覚(気感)を高める必要があります。
この気感(エネルギー感覚)を高める為に
「共感覚」を利用してみたら?というのが前回お話した内容です。
共感覚は、1つの感覚刺激が
別の感覚を引き起こすと説明されている現象です。
共感覚者は、それが普通に無意識の状態で現れるのですが、
私たちは、その状態を「意識的に」
作り出してみたらどうでしょう?という訳です。
つまり、何かを感じ取る際に意識的に
2つ以上の感覚刺激を組み合わせる。という方法です。
先ず、そのベースと生る感覚が、「触覚」です。
ぱっと見ただけで、全てがわかる「望診」を「神技」。
音を聞いたり、においを嗅いで
わかる「聞診」を「聖技」。
話を聞いて、いろいろとたずねてわかる「問診」を「工技」。
直接触れて何とかわかる「切診」を「巧技」と呼びます。
誰しも患者さんに触れもせず、話を聞かずに、
ぱっと見た(心の目で)だけで、
何もかも見通せるレベルにいきなり成れる筈がありません。
そこで、誰にでも1番わかりやすい
「触覚」をベースにして始めてみましょう。
という訳で、先ず触覚と何の感覚を組み合わせるのか?
具体的には、次回。
私たちは、いろいろな事を「思い浮かべる」ことが出来ます。
大好きな人の事や、旅先の美しい風景や、
この前食べた美味しい料理や、
これから出かけるお店のことや、お気に入りの洋服など…。
どれもありありと、色や形や匂いや手触りや、
その時の感動や感情も含めて。
心がわくわくとするものばかりでは、ありません。
嫌な思い出、辛かった出来事、
事故やケガなどの痛みや恐怖感…。
現実に今、目の前に有るわけでは無いし、
実際に起きているわけでも無いのに。
常人には分からない、見えないものを感じる能力。
前回お話しした「共感覚」の持ち主というのは、
「無意識」で常に一定してその感覚が現れます。
つまり、彼らにとってそれが「普通」なのです。
医学的には、脳の疾患だと言われたり、
スピリチュアル的には、神様からの賜り物ととらえ、
もともと、人間には誰にでも備わっていた普通の能力だ、
と言う学者さんもいます。
でも、そんな能力を持ち合わせていない私たちでも、
ある条件が揃えば、「共感覚」と同じような感覚を得ることが、
時にはあります。
その条件とは…。
「記憶」と「情動」と「5感」
そして、「錯覚」と「情報の書き換え」です。
昔よく聞いていた音楽が、
ふとラジオから流れてきて(例えがちょっと古い)、
その時付き合っていた彼女のことや、
ドライブした海辺の風景、光や風や匂い、
その時の切なかった気持ち。
そんなものが、一瞬で蘇ったりする。
そんな経験ってありませんか?(その「経験」そのものが無い…?)。
これなんかは、まさしく「共感覚」そのものです。
音を聞いて、色や匂いや触覚を感じる。
最初に書いた事柄も含めて、共通するのは、
そこに「感情」「思考」が作用しているということです。
「無意識」に感じる能力が無いんだったら、
「脳の働き」を上手に利用して、
そして思いっきり意識して(イメージして)
その感覚を作り出してやろうじゃないか!
そして、この鈍感なエネルギー感覚を磨いてやろう‼
という訳で、その方法が「設定する。」です。
具体的には、次回。