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・実際には無いものを感覚として捉える。
そして、それが現実に生体反応として表れる。
・実際に存在していて、
なおかつ脳が認知しているにもかかわらず、
意識に上がらない。
「風鈴」と「瞑想」の2つの実験は、
内容は違えど、どちらも同じことを示唆しています。
それは、「体性感覚(5感)」に「記憶」と「情動」が結びつくと、
生体反応に変化を及ぼす可能性がある。ということです。
・風鈴の音を聞いて(聴覚)、
涼しげで心地よい情景が浮かび(記憶、情動、視覚)、
風を感じて(触覚)、体温が下がる。(体温中枢)
・瞑想中にランダムな刺激を受けて(聴覚、視覚、触覚、嗅覚)、
脳波が触れるのは、正常な生体反応です。
しかし、刺激が無くなった後も続く反応は、
不快感やストレスなどの記憶と情動が5感と結びついて、
起きたものと言えます。
記憶と情動が結びついたもの。
つまり、いわゆる「こだわり」や「思いこみ」といった類いのものから、
「恐れ」、「怒り」、「悲しみ」、「疑い」や「喜び」、「愛情」
などなどが5感に働きかけて
「脳の勘違い」、「錯覚」といったものを引き起こします。
それが、良い反応として表れる場合もありますし、
逆の場合もあります。
病気や精神的な疾患などの
身体反応として表れる場合もあり得ます。
そんな場合の対処法(治療)は、
脳の勘違い、錯覚を逆に利用するのです。
その方法は、
「記憶の差し替え」、「情報の書き換え」と呼ばれます。
錯覚と情報の書き換えについては、
また次回説明します。
「心頭滅却すれば火もまた涼し。」
何事も気持ちしだい。
集中してことを行えば、熱さも痛みも何も気にならない。
スポーツでも、その一球に集中している時は、
まわりの雑音が聞こえなくなり、
何かに熱中している時は時間も忘れ、
格闘技では、試合中の記憶さえ無い時もあります。
そんな集中して「気」を高めることが上手な人と、
逆に気が散漫なタイプの人がいます。
その差はいったい、どんな所からくるのでしょうか?
これもかなり以前に、
あるTV番組で変わった実験が行われていました。
それは、集中力が高いタイプの方と、
そうで無いどちらかと言うと落ち着きの無い方?の
2組数名を一室に集めて、静かに目をつぶって瞑想してもらうのです。
そしてある程度、落ち着いた時点でいろいろな刺激、
例えば、「子供達の話し声。」や「大きな物音。」
「光刺激。」「触れる。」「匂い。」などなどをランダムに与えて、
その際の反応と「脳波」を観察、記録するというものでした。
実験前の予想では、集中している組は、
「脳波の変化が少ない」のでは?と考えられていたのですが、
結果は意外なものでした。
落ち着きの無いグループは、
刺激によって変化に多少の差があったのですが、
集中組は刺激に関わらず、
その振れ幅がどれも無い組よりも大きいのです。
つまり、刺激(変化)に対して「敏感」なのです。
ただ、2組のその後の変化には、大きな違いがありました。
落ち着きの無いグループは、
一旦脳波が乱れると、なかなか収まりません。
しかし、集中組の方は大きく振れて、
すぐにまた安定した波形に戻るのでした。
これは、集中していれば「何も感じない。」のでは無くて、
かえって敏感になっているけれども
すぐにその影響下から離れることが出来る。
逆に無い組は、外部への反応も内部での対応も
散漫でコントロールが出来にくい状態だと言えます。
これは、1つには「情動」が関係していると思われます。
この実験結果も非常に興味深いもので、
「風鈴」の場合と同様にさまざまな分野に応用することが可能です。
それは…。
また、続きます。
軒先に吊るされた「風鈴」の涼しげな音色。
夏の風物詩です。
と言いたいところですが、最近はちょっと事情が違うようです。
一日中、クーラーを作動させている為に、
窓はずっと閉めっぱなしで、
風鈴そのものを目にする機会すら少なくなっています。
そんな風鈴に関して、
以前あるTV番組で興味深い実験がありました。
それは、人は「風鈴の音を聞いて本当に涼しくなるのか?」
というものでした。
被験者は事前に何の説明も受けずにある一定の室温の中、
目隠しをされた状態で風鈴の音を聞かされます。
そして、サーモスタットで体表面の温度の変化を観察します。
その結果は…。
涼しく「感じる」だけで無く、
実際にほとんどの方の体温が低下しました。
風鈴が鳴っている状態=風がある→涼しい。
という条件反射みたいなものです。
人によっては実際に「頬に風を感じた。」方もあります。
部屋の中は無風状態なのに…。
「風景が目に浮かぶ」人もいました。
考えてみれば、これは凄いことです。
ほとんどの方が…ですが、
体温に変化が無かった人もいました。
それは、風鈴をよく知らない?若者や子供達でした。
ならば、と言うわけで外国の方に同様の実験をしたら、
案の定?1人も変化が有りませんでした。
それどころか、涼しげなはずの風鈴の音色を、
ただ単なるノイズと感じて却って、
若干体温が上がる人さえいました。
番組的には、四季のある日本人の繊細な感覚や情緒という点に
スポットが当てられていましたが、
それだけでは無いと思います。
この実験結果には、
治療やある種の能力開発に応用出来るものが内包されている、
と言えます。
それは…。
続きます。
「自宅のリビングでくつろいでいる様な感じ。」の治療所にしたい…。
それが始まりでした。
ご近所で懇意にさせて頂いていた設計士さんに相談したところ、
「こんなのが、有りますよ。」と言って持って来て下さいました。
それが、「檜の間伐材」と「杉の腰板」でした。
節(ふし)の無い一本の床柱を育てる為に間引きされた、
その他大勢の節だらけの檜達。
それが、檜の間伐材です。
ある程度の硬さがあるので、製材されて床材となります。
そして、壁には杉の間伐材を。
真っ白い壁紙は、
いかにも「病院」という感じで冷たい雰囲気がするし、
かと言って壁一面が、杉板だとログハウスか、民芸酒場に間違われるし…。
というわけで、腰までの高さにして「杉の腰板」に。
檜の床材を貼る前には、竹炭の粉末を一面に敷き詰めてあります。
そして壁や天井には、杉板以外の部分に
ノンホルムアルデヒドのクロスを貼っています。
無垢材のままでも良かったのですが、
防腐や傷のことを考慮して表面に「柿渋」を塗っています。
とにかく自然素材にこだわって内装をして貰いました。
でも、全ての材がいわゆる商品価値の無い
「間伐材」を使用しているので、
新建材のフローリングよりも却って安く上がりました。
何よりも、とても落ち着くし居心地が良いです。
「節くれだらけ」なのが、気にならなければ
(これはこれで、却って「味」がある。と思うのですが…)
とてもお買い得な「商品」だと思います。
最近では、オガクズやチップを使った「バイオ燃料」など
間伐材の利用価値は少しずつ増しています。
しかし、まだまだ「産業」として成り立つ程には至っていません。
農業にしろ林業にしろ、
それを担う人達の生活が充分に成り立っている事。
翻ってそれが、私達の安全や安心、
また国土の保全に繋がっているのでは、と思います。
というわけで?「檜の間伐材と杉の腰板。」でした。
お山の管理の問題は、「災害」だけでは無く、
私達の「健康」にも影響を及ぼしています。
日本の森林の4割を占める人工林では、
一定面積内に非常に多くの本数の苗木を植えて、
数年ごとに間伐を繰り返し、木の成長にあわせてその都度、
適正本数を保つように調整しています。
何故そんな事をするんでしょうか?
それは、林業を1つの「産業」として捉えれば理解出来ます。
杉や檜、松などの針葉樹は
密集して植える事で真っ直ぐに育ちます。
まばらに植えられた苗木は、
下の方が太く先端に行くに従って細くなります。
木としては健全な成長とも言えますが、
木材としての商品価値としては、
真っ直ぐな材の方が望ましいのです。
商品としての木を育てる為には、
先ず地ごしらえを行い、苗木を植え、
それから数年は下刈りという作業を続け、
10年を過ぎると枝打ちが必要となり、
これを30年近くの間に計5回。
そして、間伐です。
8〜10年頃から育ちの悪い木や、
育てようとする木の邪魔になる木を伐採し、
その後も5年おきに、10〜25%間引いて行きます。
そうして40~50年、或いは70年かけて主材となります。
膨大な作業、手間と費用と人手と年月をかけて育て上げた木。
それが…間伐材は勿論の事、主材ですら、
輸入材に圧されて原木市場で買い叩かれてしまうのが、
日本の林業の現状です。
その為に、植林された木材の手入れが侭ならなず
放置されてしまします。
日本国中、杉や檜だらけというわけです。
それが、花粉症が近年増加している原因の一端とも言えます。
アレルギー症状は、本人の体質改善や予防なども勿論、
大切な事柄では有ります。
しかし、それだけでは無く、環境問題や産業構造など、
国としての施策も非常に重要な課題でもある。と言えます。
以前のブログでも書きましたが、
再来年「山の日」を制定するのにあたり、
休みを増やすばっかりじゃ無くて、
もう少し「お山の管理」という問題も考えて欲しいと願います。
広島市で発生した土砂災害。
本当に何と言って良いのか。
ニュースの映像を見て、言葉を失いました。
広島市安佐北区に勉強会などで、
大変お世話になっている先生がいらっしゃるので、
心配していたのですが、
昨晩、「何事も無く、無事です。」という内容の新着ブログがアップされて
ホッと胸をなで下ろしました。
ほんのちょっとの所で、被害の状況には雲泥の差があったようです。
今回の災害も、本当に他人事では有りません。
私達の住む芦屋や神戸でも、
同じような地形の所は、たくさん見受けられます。
南北に海と山に囲まれた狭い土地に、
住宅がびっしりと建ち並ぶ街並み。
当然、山へ山へと開発の手は拡がって行きます。
芦屋川や高座川の上流の「こんな場所に」というところまで、
新しい大きな家やマンションが建っています。
今回のように、わずか3時間の間に8月の1ヶ月分の大量の雨が
狭い地域に集中的に降れば、
この辺りも果たして大丈夫なのでしょうか?
考えてしまいます。
改めて、最近芦屋市から送られて来た
「防災ハザードマップ」を確認してみました。
やはり、市内のかなりの地域が
土砂災害の危険地域や警戒地域に指定されています。
それだけでは無く、43号線より南の地域は、
殆どが「津波」浸水に注意が必要。となっています。
何も、むやみやたらに心配ばかりする必要は無いのですが、
もう1度改めて、自分達がどういう所に住んでいるのか
「防災マップ」で確認されては如何でしょうか。
避難場所や、そこへ向かう避難経路も
実際に歩いて見るのも、悪くは無いと思います。
芦屋市も、1人暮らしのご高齢の方が沢山いらっしゃいます。
小さいお子さんや、障害の在る方も含めて、
いざという時に直ぐに避難が出来る体制を
地域を挙げて日頃から考えていく必要性を
今回の災害で痛感為せられました。
家でも、家族と避難方法や連絡方法など、
話し合わなくては!と思います。
阪神間でも、前回の台風11号の接近以降、
お盆休みの間も大量の雨が降り、
各地で甚大な被害が出ています。
患者さんの中にも、天の橋立への旅行の帰り、
浸水被害の為にJRが不通で立ち往生されたり、
自宅の真ん前の電柱に落雷があり、
数時間停電を余儀なくされたり等々あったようです。
芦屋でも、奥池から有馬温泉に向かうバスが、
土砂崩れの為に不通となっています。
どうやらトンネル部分が崩れたようで、
復旧には年内一杯掛かる見通しのようです。
六甲山でも数カ所、
道路が通行止めや片側通行になっている箇所があります。
登山道も崩落して通れない場所があるようで、
こちらも復旧には時間がかかりそうです。
昨今の、局所的に大量の雨が集中して降る、
その降り方は異常です。
そろそろ地球規模での対策を
講じなければ行けない時期に来ているのかも知れません。
ただその「自然現象」である異常気象と、
河川の氾濫や土砂崩れなどの「自然?災害」は分けて考えるべきです。
それは、「お山の管理」と「治水」という
人為的な要因が関係するからです。
これまでも、山肌を削ったり木を伐採して開発を進めた結果、
今迄に無かった災害が発生している事は指摘されていました。
しかし、それとは逆に手付かずに放置されている里山が
土砂災害を増幅されている原因では?
とも言われ始めています。
それは、経済的な理由や人出不足などで、
間伐が十分に行われ無かった為に木が生い茂り、
日光が地面まで届かず、下草が育たないから。
だと言うのです。
その為に、地面の保水力が乏しく表面の土砂が剥がされて、
一気に斜面を下って行き易くなるんだそうです。
六甲山や摩耶山を歩いていると
土砂災害を防ぐための「砂防ダム」を至る所で目にします。
しかし、そんな砂防ダムを今回の台風では、
各地で、完全に塞いでしまったり、破壊したり、
またはその上を乗り越えて麓の人里まで土砂が流れこんでいます。
里に住む人間が、適正にお山の手入れをし、管理する。
これは中々に難しい問題です。
お盆休みも終わり、
今日18日から平常通り施術させて頂きます。
よろしくお願い致します。
今年は、今頃になって梅雨?というぐらい
雨の多い夏休みでしたね。
例年、お盆休みが過ぎるといろいろな事象に変化が見られます。
暑中御見舞いが、残暑御見舞いに。
海水浴も、「足を引っ張られるから」お終いに。
蝉の種類も鳴き声も変わり、ちらほらとトンボの姿も。
日差しも、雲の様子も、風の具合も
何となく違って感じられます。
というのは、数年前迄の話でしたが、
今年はどうでしょうか?
9月いや、10月過ぎまでダラダラと暑さが続くのか?
それともこのまま雨の多い、
結果的には冷夏と呼ばれるようなものになるのか?
何れにしても、体調管理の難しい
季節の移り変わりとなりそうな気配です。
それに備えて?
またこれからも皆様の心と身体の健康に
役立つであろう様々な情報を
ブログを通して発信して行きたいと考えています。
これからもよろしくお願い致します。
家族が毎日食事をしたり、眠ったりする同じスペースに、
仏壇や位牌といった祖先を祀る「祭壇」が在る。という所は、
世界的には、非常に珍しいようです。
日常の生活の中に、もう既に亡くなった方々が、居宅に存在する。
外国の方から見ると、「とても素晴らしいシステムだ。」と感じられるようです。
よく、一番身近なご先祖様は自分達の両親である。と言われたりします。
私達は、親や祖先からいろいろなものを受け継いで生きています。
苗字や、家や土地や財産。
仕事であったり、家柄や身分だったり。
長男、養子、嫁ぎ先。
事情はさまざまです。
でも、誰でもが確実に受け継いでいるものが有ります。
それは、DNA、遺伝子です。
先人が、生きてきた証し。
記憶としての情報が、
全ての人の肉体に脈々と流れています。
そういった意味では、
自分自身の肉体が最も身近なご先祖様。
と言えなくは無いと思います。
自分自身の身体の発する「声」に耳を傾けること。
自分自身の身体を大切に生きること。
それが、最も身近な先祖供養に繋がるのでは…。
くれぐれも「御身大切に。」
元来、仏教の教えで「先祖供養」を
説いているくだりは、ありません。
勿論、お釈迦様が仏壇や位牌について説法を為れた。
という記録は残されていません。
仏教が、インドから大陸を通り
中国、韓国に伝来した際に「儒教」の影響を受け、
先人を大切にする。という思想が加わりました。
それが、海を渡って渡来し
元々、日本にあった自然信仰や「氏神信仰」などと融合して
長い年月の間に現在の先祖供養という形に為ったと言われています。
(諸説あるようですが。)
氏神様と言えば、
「引っ越しをして来たら、近くの氏神様にご挨拶に出向いた方が良い。」
と言われるように、その地域を守護する神様(神社)と認識されています。
しかし、その成り立ちは読んで字の如く、
それぞれの「氏の神様」という意味が有ります。
「蘇我氏(そがうじ)」、「物部氏(もののべうじ)」のように
それぞれの一族を祀る社(やしろ)を
氏神様(神社)と呼ばれていました。
その一族を祀る社は、
「鎮守の森」と言われるように、
人々の住む「里」に近い「山」へと向かう森に鎮守していました。
元々、日本では「八百万の神(やおよろずのかみ)」と呼ばれるように、
岩や木や、山や滝といった自然の造詣物にも
「神」が宿るといった自然崇拝の信仰がありました。
ですから、亡くなった方々も「山」や自然に帰る。
と考えられていました。
山から来て山へと帰る。
それも、自分達の住む「里」から繋がっている「森」へと。
亡くなった方々が、身近で直ぐ傍(そば)に居て、
見守ってくれている。
そんな感覚を日本人は、自然と身につけています。
そんな感覚が、仏壇や位牌といった
「もの」に繋がっていったのでは?と考えられます。
続きます。