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院長先生から宿題を出されてから約20年。
あれから、片時も忘れること無く答えを求め続けた日々…。
なんてことは全く無く、完全にその場限り…でした。
その意味を深く掘り下げて考えることすら、ありませんでした。
しかし、ブログを書き始めて「すべての人生は、実験だ。」
なんて言っていたら、ふっと思い出したものでした。
数多くの方と接し、施術を通して
その方の人生に多少なりとも関わらせて頂きました。
そして、其処からいろいろなことを学ばせて頂きました。
「覚るを悟る。」
院長先生が、伝えたかったのは
何となくこんな感じではなかったのかなぁと
最近思うようになりました。
それは、
生まれたばかりの赤ちゃんや、純真無垢な子供達。
それに、犬や猫なんかの動物たちや、
花や樹木などの植物。
皆んな、大自然に抱かれて育まれています。
私達、大人の人間よりもある意味、
自然の摂理や、宇宙の真理といったものに近い存在。
と言えるかもしれません。
「覚る」:宇宙の真理を直観的に気付く。
もしかしたら、動物や、植物や赤ちゃんなんかは、
生まれながらに覚りを得ているのかもしれません。
でも、自分が覚っている事実を知りません。
比較するものが無いので、
それが「覚り」の状態かどうか気付きようが無い。
と言った方が正しいのかもしれません。
そんな状態から、私達は皆んな成長し、
良いことも悪いことも、楽しいことも苦しいことも、
いろいろな経験を積み、
時には怪我をしたり、病に倒れたりしながら、
思考を巡らせ感情をコントロールする術を学びます。
幸せになる為に。
人生を願い通りに…では、無くて思い通りに生きる為に。
日々、逡巡するのです。
そしてある時、ふっと気づきます。
こう考えれば良いじゃあ無いか…と。
それが「悟り」です。
経験によって知識を身に付けて自ら理解する。気付く。
そして、その気付いた事柄は?
「へえー。そうだったのか‼」
では無くて
「何だ。そういうことか。」
ということばかりです。
昔から知っているし、よく聞いてもいた。
そんな単純で簡単なことだったんだ。
そんな感じだと思います。
何せ、生まれながらに皆んな備わっている感覚ですから。
「覚るを悟る。」
天から与えられた資質を経験しながら学び、自らのものと為る。
人生とは、いわば「覚るを悟る。」為の壮大な実験の場。
なのかもしれません。
これが、「宿題」の答えかどうかは、分かりませんが、
何となく自分なりに「腑に落ちる」感じがします。
でも案外、20年後にはまた別の「悟り」を得て、
正に「心眼を開いた。」と言っているかもしれませんが…。
「潔くある為に必要なものは何か?」
院長先生は、こう続けられました。
「それは、覚悟だよ。」
「そう言われると、皆んな「なぁんだ。」と思うだろう。
潔さと覚悟を決めることって、何となく似通った感じがするからな。」
「じゃあ、改めて「覚悟」とはどんな意味なのか。
皆んな解るかい?」
「覚悟の「覚」は、覚り(さとり)で、「悟」も悟り(さとり)。
つまりは、ダブルのさとりってことだな。」
「でも、覚りと悟り。この違いは、解るかい?」
「覚りの方は、感覚の「覚」で、いわば感覚的に理解する。
直観的に気づきを得る。ということだ。」
「悟りの方は、経験によって知識を身に付ける。
いわば、智恵による気づき。」
「また、覚には宇宙の真理を覚る。
自分以外の世界の成り立ちを知る。という意味もある。」
「つまり「覚」は、直観的に宇宙の真理を覚る。と為る。」
「かたや「悟」は、吾(われ)という文字が表すように、
自分自身のことを悟る。自分自らが悟る。と為る。」
「これ等を全部合わせて考えると、
覚悟とは、世の中の成り立ちを知って、
自分がどうするのかを自ら決めること…。だと言える。」
「よく人間は、覚悟するだの、覚悟を決めるだのって、
簡単に口によるけれど、本来は其処に
「気づき」や、「さとり」といったものが無いと
空回りしてるのと同じことだ。」
「本当の意味で、覚悟が決まった人の行い、
生きざまは清々しくも潔い。と言えるだろう。」
「男らしさは、潔さ。なんてさっき話をしていたが、
これは何も男だけに限ったことじゃあ無いなあ。」
「少し長くなったが、覚悟の意味。分かったかな?」
「ああっ、そうだ。もう一つ
大切な意味があったのを忘れていたよ。
いや、これは今言わない方が良いだろう。
自分で気づく、いわば悟り。
つまり、宿題だな。
まあ、ヒントだけ。
「覚るを悟る。」ということで、
今日はお開きにしようか。」
「ええ〜。そんなぁ。」
続きます。
「潔い」のことを書いていて、
ふっと思い出すことがありました。
以前(といっても、20年ほど前に為りますが…。)、
私の師匠との会話のことです。
院長先生の治療所に見学に伺いその後、
他のスタッフ数名とお酒を飲みながら、話が盛り上がり、
どういった経緯かは忘れましたが、
「本当の男らしさとは」とか、「真のリーダーとしての資質とは」
なんていう難しい話に向かって行きました。
院長先生が、
「君らは、男らしさを一言で言い表したら、どう表現する?」
「一人ずつ、述べなさい。」
そこで、皆んなはそれぞれ答えていきます。
「男らしさは、力強いことです。」
「包容力です。」
「さっぱりと竹を割った様な性格です。」
「経済力です?」
いろいろと出ました。
因みに、院長先生はボディービルダーであり、
少林寺拳法の達人でもあり、
武闘派としての一面も持ち合わせておられたので、
ある程度その辺も念頭に置いて
皆んな答えている感じでした。
「じゃあ、吉田君はどう思う?」
既にひと通り解答が出ていたので、少し考えた末に、
ちょっと違う方向で攻めてみようと思い、
「自分に正直な人だと思います。」と答えました。
するとその瞬間、その場で空気が盛り下がるのを感じました。
(な〜に〜。やっちまったな〜。)
byクールポコ
恐る恐る院長の顔を見ると、反応は意外なものでした。
「なかなか、良い処を突いてるじゃないか。」
「えっ、そうなんですか。」
「皆んなも憶えておいたほうが良い。
男らしさとは、何も喧嘩が強いとか、
行動力があるとかじゃあ無くて一言で表すと、
潔さ…。
と言って良いと思うよ。」
「潔さ…。ですか?」
「そうだよ。「いさぎよし」とは、「いさ」が、
「勇む」や「いと」を表して、
「きよし」はそのまま「清し」だ。
つまり、
「勇んで清し」、「いかにも清い」という意味だ。」
「卑怯なところが無い。責任転化をしない。
常に正々堂々としている様を表しているんだ。」
「なるほど。男らしさは、潔さか。」
「そういった側面から考えると
真のリーダーとしての資質も自ずと分かってくるだろう。」
「それは、常に「出処進退を明らかにする」ということだよ。
身の処し方や、責任の所在を常に明確にしておくこと。
それが出来る人こそが、真のリーダーに相応しい人だと思うよ。」
「確かに、そうですね。」
「それは良いとして、吉田君。
では、潔くある為には何が必要だと思う?」
「ええ〜。それは…。」
続きます。
残念ながら奇跡は起きませんでした。
サッカー日本代表、GL敗退。
終わってみたら、一勝も出来ずにグループ最下位に。
これが現実、これが実力。と言ってしまえばそうかもしれませんが、
あまりにも無念。
世界の高い壁に阻まれて、思うようなプレーをさせて貰えずに
選手達も悔しい思いで一杯でしょう。
更に、この結果を受けて早速、戦犯探しが始まり、
直前まで持ち上げていたマスコミも手のひらを返したように、
批判の嵐が吹き荒れるのは、目に見えています。
監督さんや選手達が、四面楚歌、八方塞がりの状態に
追い込まれなければ良いが。と心配します。
こんな時、私の師匠から20年程前に懸けられた言葉を思いだします。
当時、神戸の治療院で勤務していた私は、
独立開業に向けて準備し計画を進めていたのですが、
その矢先にあの阪神大震災。神戸の街は壊滅状態に。
予定していた物件もおじゃんに。
その年の春に小学校に入学する長男を筆頭に3人の子供たちと
嫁さんのお腹には、4人目が…。
前に進むことも、退くことも侭ならないそんな状況に
一瞬で追い込まれてしまいました。
そんな時院長でもある私の師匠が、
「四面楚歌、八方塞がり、何処にも出口が無い様に見えても、
一つだけ「上」はあいている。
神様は、天に通じる道だけは開いて下さっているんだよ。
行く手を塞がれた人にかける言葉は只一つ。
「それでも前を向いてあえて前に進め。」では無くて、
「上を向け。そして、上を目指せ。」なんだよ。
周りを全て高い壁に囲まれて立ち往生していると感じたら、
焦ってはいけない。
その場に根を下ろして上に、上に伸ばして行けば良い。
そして、壁を「越す」んだ。それしか道は無い。」
その言葉に気持ちを奮い立たせて、
震災から3年後に縁あって芦屋駅前に
現在の治療所を開設することができました。
だから?私も香川選手に会うことが有ったら
(まず無いし、もし有っても「誰?このおっさん。」と突っ込まれるのがオチやけど。)
こう言いたい。
「下を向くな。顔を上げて。
あえて…上を目指せ。」と。
五月晴れの澄んだ青空。
ばかりでは、ありません。
曇りの日も、雨の日も、
時には風が吹いたり、雷が鳴ったり嵐の日も、あります。
私たちの生活は、天候や環境によって少なからず影響を受けています。
同様に、私たちは立場や周りの人間関係によって
考え方や、気分など良くも悪くも左右されがちです。
泣いたり、笑ったり、イライラしたり、落ち込んだり。
お天気と同じ。日替わりで、右往左往しています。
しかし、このブログでよく話題にさせて貰っている私の師匠は、そんな事はありません。
(少なくとも私には、そう見えました。)
どんな状況に於いても、どんな立場の人に対しても、常に「泰然自若」です。
そんな師匠がある時、こんな話を為れていたのを覚えています。
「吉田くん。雲の上は、いつも快晴だよ。」
「あぁ、はぁ。確かにそうですね。」
「人間、生きていればいろんな事がある。上手く波に乗れる時もあれば、
また誰かにハシゴを外されてしまう事も有る。
美味しい話で擦り寄ってきたり、かと思えばさっと手のひらを返したり。
何を信じればいいのか?誰でもあるはずだ。」
「院長先生でも?」
「そんな時は、いつもこう考える事にしている。雲の上は、いつも快晴だ。と。
お天道様はずっと我々を照らしている。
だが、時に厚い雲が覆い隠してしまう。光の存在を疑うことさえある。
どうすれば良いか?考えた結果
私は、いつも雲の上に居ることにしたんだよ。」
「雲の上の人になる?」
「そう、よく「あの人は、雲の上の存在だ。」何て言っているだろう。
あれは、私たちには、手の届かない存在だ。と言う事では無くて、
あの人は、何物にも惑わされずに突き抜けた存在だ。
と言うのが本来の意味だと思うよ。」
私自身は、迷いもがくことの多い人間です。
それでもいつもこう心に言い聞かせています。
「雲の上は、いつも快晴だ。
だから、雲の上の人になる。」
と。
20年以上前の話です。
現在の杏林堂鍼灸整骨院を開業する以前、
神戸のある治療所で勤務していました。
その時は、既に結婚して長男も誕生していました。
仕事をして、勉強もしてという生活でしたし、
もともときっちりと計画を立てて予定通りに進めて行くタイプの性格だったので、
子供が生まれた事によって生じる
予期せぬ出来事や、雑事に、ペースが乱されっ放しでした。
思い通りに行かず、イライラしてばかり。
何とか、一人になって自分の時間が欲しい。と何度も思いました。
そこで、私の師匠でもある院長先生に相談する事にしました。
院長には、子供さんが6人居られたのです。
私の場合は、一人でも音を上げているのに、
6人もの子供さんと、どうされているのだろう?
イライラしたり、私みたいに一人になりたい。なんて考えたり
しないのだろうか?と。
私の問いに師匠は、こう答えました。
「思いは、必ず通じる。だから
僕は、口が裂けても、一人になりたい。とは、絶対に言わない。」
「えっ、それは逆では?」
「最後迄、よく聞きなさい。人間の願いは、いつかは叶えられる。
でも、それは直ぐにでは無い。必ず時間差というものがある。
その思いを忘れた頃、手放した時に思いがけず叶うものなんだよ。
自分が年をとって、身体が不自由になって誰か側にいて欲しいなぁと思った時になって、
天はその思いをようやく叶えてくれる。
周りに誰も居なくて一人ぼっちだったとしても、恨んだり、嘆いたりしては
いけないよ。それは、自分自身が強く
願った事が、時間が経って叶えられただけなんだから。
思いは、通じる。
だから僕は、一人になりたいなんて考えたりは、しない。」
私は、師匠の言葉に何も答えられませんでした。
人の思いは、必ず天に通じる。
それ故に、何をどのように思うかをしっかりと精査する必要がある。
そして、その事に責任を
持たなければ行けない。と言う事を師匠は、伝えたかったのだと思います。
それ以来、自身の予定通りに行かず、イライラする様な時も心の中で、
そっとこう呟くようにしています。
「どんな時でも(あんな事やそんな事も)、
君と一緒に時間と空間を共有する事が出来て幸せだよ。ありがとう。」
そう言って、大きく深呼吸してみます。
そんな私も、師匠には遠く及ぶませんでしたが、
何時の間にか4人の子供の父親をさせてもらっています。
王龍宝先生は、現代中国の百人の名医に選ばれた事もある中医で
約20年ほど前に、日本のある大学に招かれて来日されました。
漢方薬による胃癌治療の研究、及び指導が主な目的でした。
当時は、中国から米国や日本に渡航する事がステータスでもあった時代で
王先生も中国での実績を捨てて、
日本での更なる活躍の場を求めて来日されたのですが、
その期待とは裏腹に
王先生の意見や、東洋医学的な思想は
日本の研究者や、ドクター達には受け入れて貰えませんでした。
やむなく、志し半ばで自ら退任せざるを得なくなりました。
その後、私の師匠とご縁があり、神戸の地に転居されました。
そのおかげで、私の開業の際に
額を頂いた訳ではあるのですが…。
王先生が経験された
西洋医学的な考え方と、東洋医学的な思想には、
大きく分けて二つの決定的な違いがありました。
それは…。
長くなりますので、また明日に。
記念すべき初めての投稿(実質の)は、
我々、鍼灸師の練習方法について です。
鍼灸師に成るために学校に入った当初は、当り前の事ですが
いきなり人に鍼を打つことは出来ません。
先ずは、鍼まくらと言ってウレタンや、
綿花でできた手のひら大のまくらに打つ練習をするのですが、
これも最初は中々、上手く行きません。
何せ、太さ約0.02ミリの髪の毛ほどの物を扱う訳ですから、
先ず入りませんし、入っても差し込めません。
すぐにくにゃっと曲がってしまいます。
それを何とか練習して、打てる様に成ると今度は、
固物通し(かたものどおし)です。
文字通り、かまぼこ板の様な硬い木の板に通す練習です。
これは、比較的出来易いのですが、その上の難物なのが浮き物通しです。
水に浮かべた物に鍼をさす。と言う物です。
私の場合は、水を張った洗面器にリンゴを浮かべて練習しました。
リンゴを手で抑えてれば、簡単なのですが何せ、プカプカと動くので、
上手く力が伝わりません。
それでも、毎日一ヶ月、二ヶ月と練習を繰り返すと
不規則なリンゴの動きに合わせてスっと差し込む事が出来る様に成ります。
鍼を打つことに必死で、気付かなかったのですが、
よく考えて見るとずっと同じリンゴを使って練習していたのでした。
二ヶ月も経っているのに、全く腐ってもいませんし、しぼんでもいません。
鍼って凄いなぁ。
生命力を与える事が出来るんやなぁ。
と、感じました。
その事を私の師匠に話しをすると、師匠は
「確かに鍼を打つことによって、生命力を引き出すと言う側面もあるかもしれない。
でも、腐らなかった一番の理由は、君の真剣な気持ちだと思う。
技術では無く、最終的に伝わるのは心しか無いんだから。」と、言われのです。
その時は、あまり良く解らずに、「そうだよ。鍼って凄いんだよ。」
ぐらい言ってくれても良いのに。
そんな風に感じていました。
でも、今ならその意味は良く解ります。
そんな奇跡のリンゴの話でしたが、
なんと鍼の練習法には更にその上の究極の?物が有ります。
さて、その練習法とは?
次回のブログで。